斎藤利郎著『老年の人間の生き方』を連載します。 本書は、NPO法人家族のこころのケアを支援する会主任教授である斎藤利郎が、電話相談者のための研修にて発表した講演録に加筆修正したものです。

老年の人間の生き方 その10

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とうちゃんは食事中
 老人漫画の天才だ、と美人画の杉浦幸雄さんをして言わせしめた西澤勇司さんの漫画は、老年の人間とは、かくもたのしく勇ましく、そして、ひょうひょうと生きているのか、と感じさせます(『老いは愉しい!』都市文化社:1999)。精神科医の斎藤茂太先生が西澤勇司さんの漫画を観て「いいヒントがたくさんでています」とおっしゃいますが、まったくそのとおりです。現役時代のように生をたのしみたいなら、屋台を路上にもちだせばよい。退職してからどうも時間のけじめがつかんなあ、と感じたら、古道具屋でカチンコを買ってきて、「ただいま、帰宅!」とやったらいい。孫や嫁が自分のイメージと相当に異なっていても、「どこで遺伝子が組みかわったか」、「働き者だよ、息子の嫁は!」と、言えばよい(漫画参照)。これが、この講義の最初の部分で話しました、発想の転換です。己のアイデンティティをつらぬく方法です。でも、どうすれば、こうしたうきうき感とたのしさを享受できるのか、が問われます。多くの老年の人間は、たぶん皮肉な薄笑いを顔面に浮かべ、「まあ、ご勝手におやりなさい」と、言うかもしれません。それでも、まあ、いいか、と思うのですが、わたしの経験を話すのも一興かと思います。


妻が「うつ」と診断されて
 妻の顔から快活さと笑みが失われ、わたしを世間知らずとみて、対外的なことは、みずから何でもやってしまう積極性が、どこかえ消えうせ、心療内科から投薬を受けていたのを知ったのは、二年ほどまえのことです。医師は、「うつ」とラベルをはったそうです。「これは、えらいっこちゃ!」と、いまこそカウンセラーとしての、わたしの技法が役立つとき、と思い「あなたを悩ませているものは、いったい何なのかなあ......」と、やったのです。この問いに対して、妻は「わたしにカウンセリングの技法を試さないでください!」。ああ、そうですか。

 どうも、わたしは、妻の状態を治してやろう(改善)、ことばを替えて言えば、妻を変えてやろう、としたわけです。「他者を変えようと思うな。他者を変えたければ、まず自分が変われ」という諺があります。これは、ずいぶんまえから自戒のことばにしていたように感じますが、なかなか難しい。この二、三年、学習し試みていることを話します。

わたしに言わせている「奴」を外在化せよ
 妻が「わたし、不登校よ」(中・高一環校の教師です)と言いました。わたしは、「弱ったなあ......」と思うわけです。すると、「生徒も待ってるだろう。そんなこと言わずに、ほら、元気だして!」となります。でも、これで元気になるわけでもないのです。このことばは、わたしの「弱ったな......」という気持ち、わたしの側の気持ちであり、自己欺瞞、あるいは自己本位から出てきたものです。わたしは思うわけです。(弱ったなあ......この気持ちは、学校を辞めてどうする。あまり早い朝とはいえない時間に起床し、ソファーに横になってコーヒーをすすりながら、テレビをつけてサスペンスをみいる。昼になってサッポロ黒ラベル350mlを飲む。それが終わると、今度は、有線テレビの時代劇チャンネルで鬼平犯科帳をみる。彼女の休日の過ごし方から想像されるのです。これは、わたしには脅威になります)。

 そんな気持ちから出てきたことばに、妻が応じるはずもありません。そこで、わたしは、この自己本位の気持ち、自己欺瞞にむかって、「おい、自己本位よ、わたしから離れてくれ。いま、わたしは、キミを必要としないんだよ!」と、わたしの内部から外に追い出しました。つまり、わたしの自己本位、わたしの側の気持ち、自己欺瞞というわたしの問題を外へ出したのです。これをナラティヴ・セラピーでは、「外在化」と言ってます(M/White, 2007, Maps of Narrative Therapy)。こうしたわたしの問題が外に出されたので、わたしの内なるこころは、もっと自由に「そうか。じゃ、駅まで一緒に歩こう。わたしの糖尿にも歩くことはいいことだからねえ」と、なんの抵抗もなく言えました。夕食を作ることが大変なようなので、「おお、いいチャンスをくれるねえ。幼い頃、母の手伝いをしたけれど、うまくいくといいね」とも言いました。これは、「具合が悪くたって、夕食ぐらい作れよ!」というジェンダーへの偏見に向かって、「おい、偏見さんよ。『妻が食事を作る』と誰が決めたのだ。キミはわたしから離れて、そっちへ行ってくれ」と、偏見を外在化したのです。

(この講演後の質疑応答で、ひとりの女性の出席者から、「相手に対して我慢するのでは、フラストレーションがたまって、かえって関係が悪くなるのではないか」という質問がありました。わたしの短い話で十分意を尽くすことができなかったのでしょう。ここですこし説明します。外在化の「わたしから離れて、ちょっとあっちへ行ってくれ」という表現技法を「我慢する」方法と受け止めたのでしょう。
 オーストラリアのM.ホワイトが、ナラティヴ・セラピーを開発しました。この理論は、二つの根幹をもっています。一つは、わたしたちは、自身特有の価値や広く社会に流布する亡霊に支配されています。そうした亡霊から自身を救出するとらくになります。二つ目は、自分の問題は、自分の内部にあって、自分ではどうしようもないと思ってしまっています。つまり、亡霊が自身の内部にあり、自分ではどうすることもできない、と勝手に思い込んでいます。外在化とは、自分の内部にあることにさえ気づかない亡霊、「優先席は老年の人間のためにある」、「女はメシを作ったり、洗濯したり家事をすべてやるべきだ」といった亡霊に外へ出てもらう表現技法なのです。いちど自分でやってみてください)。

 老年の人間には、この外在化の技法を獲得する機会が必要かもしれません。嫁いびりは、文化の相違というよりも、むしろ自分のこころの状態を学習することを、永遠に放棄したことからきているように思います。西澤勇司さんの老人漫画にある「息子が働き者のヨメと帰ってきた」ということば、これは、姑・舅の「あれは、農家の嫁ではない!」という偏見、あるいは、思い込みを、「おい、わたしの思い込みさんよ、わたしから離れてくれ。オマエとは絶交だ!」と、外在化したので言えるのだ、と思います。屋台での食事でも、「おかしいのでは?」という他人の目を「若い連中がバンでやってくる弁当屋で昼食を買うのと同じさ。おかしいさんよ、わたしの外へ出てくれ」と、外在化できると、たのしむことができます。

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このページは、adminが2010年4月 2日 09:48に書いたブログ記事です。

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