斎藤利郎著『老年の人間の生き方』を連載します。 本書は、NPO法人家族のこころのケアを支援する会主任教授である斎藤利郎が、電話相談者のための研修にて発表した講演録に加筆修正したものです。

老年の人間の生き方 その6

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「みえてくる」
 大江健三郎さんが『伝える言葉プラス』(朝日新聞社)のなかで、こんなことを言ってます。
「『知る』から『わかる』と進むことで、知識は自分で使いこなせるものとなります。そして柳田(国男)は『覚える』の次に『さとる』を置きますが、私は『わかる』の先にも『さとる』があるように思います。それは知ったことを自分で使えるようになることから、すっかり新しい発想に至ることです」
 老年の人間は、物事を「知る」から「わかる」、つまり、「みえる」ようになったのだと思います。わたしのことばで言えば、「みえてくる」、「みえてきた」のです。

 少し脱線しますが、二十世紀の三分の二を生きていた老年の人間は、「知る」ことに努めました。サラリーマン生活をつつがなく送るには、「さわらぬ神にたたりなし」、「出るクイは打たれる」、「長いものには巻かれろ」、さらには「もの言えば唇寒し秋の風」、「寄らば大樹の陰」、「鶏口となるも牛後になるなかれ」、「能ある鷹はつめを隠す」(読売新聞:1992.10.8)という知識が必要でした。

 ところが羽化をはじめて、その「知る」、知識は、処世術ではなかったのか、あるいは、自己のアイデンティティとしては、あまりにも貧困である、自分の本来のアイデンティティにはなりえないことを「わかる」のです。「みえてくる」のです。大江健三郎さんは、大変実直で誠実なひとですから、テレビのクイズ番組のありように驚異を感じながら、「『知る』ことに始まり、『わかる』ことでしっかり身につけ、さまざまな事象について考えることを言葉にする(さとる)」と述べていますので、わたしがいま言ったこととは、いささか意味が異なるのですが、ことばを変えて言えば、平成の老年の人間は、自分が生きてきたプロセスの矛盾に「気づいた」、自分の本来のアイデンティティとは異なることに「わかった」のです。

わかることと気づくこと
 自分の生きてきたプロセスの矛盾に「気づいた」ということばを、知るとみえるということばと同義に用いました。わたしは、気づく awareness ということばをヒッピーの親玉(いまでは死語かもしれませんが......)のようなパールズの「気づき」の意味に用いました。
 わたしたちは、「ああ、そうか!」と、気づくことはできます。でも、気づいただけでは「さとる」へとすすめません。わたしは、高齢の人間です。「ええ、そうです。だからどうした」。威張るのもいいのですが、「他人にいま何が起きているのかを理解することによって、多くを学び、他人との葛藤の多くが自分自身であることに気づき、その一体化からあなたは学習する。学習と発見は同じである。あなたは自分自身を発見する。気づきは、発見の手段である」と、パールズは言います。老年のわたしには、サジェスティヴなことばです。

無視されたくない、自分の存在を認めてほしい

 ほとんど記憶されているひとがいないのではないか、と懼れつつ言うのですが、歌手、俳優、コメディアンである植木等さんの「スーダラ節」じゃないけれど、「わかっちゃいるけど、やめられない」のですよ。「わかる」のです。でも、わかっても「さとる」へ向かうことはなかなか難しいのです。若いひとが優先席にデンと腰を下ろしているのを見て、「おお、ご苦労さま。よう働いてくれてありがとうよ」と言えんのですよ。これが言えるようになると「さとった」ことになります。

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このページは、adminが2010年2月28日 08:45に書いたブログ記事です。

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