斎藤利郎著『老年の人間の生き方』を連載します。 本書は、NPO法人家族のこころのケアを支援する会主任教授である斎藤利郎が、電話相談者のための研修にて発表した講演録に加筆修正したものです。

老年の人間の生き方 その4

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羽化した人の短くもあり、また、ありあまるときの季節

 わたしは、老年の人間のとき、つまり、老年の人間の季節を「短くもあり、また、ありあまるときの季節」と、あいまいに表現しましたが、これは老年の人間 のこの季節の生き方、考え方、発想の転換、あるいはそのひとのアイデンティティなどによって、どちらとも捉えうる、ということを示唆しています。

 物理的、あるいは、厚生労働省の役人たちの数字の世界から言いますと、現代の老年の人間の季節は、長期化しています。少し資料として年代が古いのですが、「ライフサイクルの変化(厚生省・1986)」をごらんいただけると理解できるかと思いますが、大正時代では、夫は定年(引退)後1、2年後に身罷り、妻がそれより2、3年後にお迎えがきたのです。ところが平成の今日、定年(引退)後の余生とやらは、20年、ひとによっては30年もあります。

 しかし、この数字は、老年の人間の生活には無関係のように感じます。なぜなら、わたしのことばで「自分の人生を生きる」老年の人間には、短くても自分の人生を生きる、生を感じることができますし、ありあまるかに見える人生も、あるいは短い生命であるかもしれないのです。その意味では、「ありあまって」はいないのかもしれません。これは、自己の生をどのように捉えているか、あるいは自分の人生をどのように生きるか、そのひとのアイデンティティと関係することのように感じます。

 このように考えますと、老年の人間だけではなく、あらゆる年代層の人びと、現代人が問われている長寿の問題のようにみえます。とはいえ、老年の人間、この羽化の季節を上手に生きることが難しいのも現実です。

愚痴ったり
 10年ほど前のことですが、久しぶりに友人の子どもたちが東銀座で営む料理屋で、おたがい頭髪が後退し、白髪が目立ちはじめた頭をみながら、その友人と盃をかさねました。近況の報告をしながら、友人が眉間にしわを寄せ、独り言のようにつぶやきました。

 「歳はとりたくないね.........いやねえ、親父が死んでね、2年になるんだが.........ボクんところにきたいというので、『いいだろう、わが家は、夫婦共働きだ。気兼ねなく過ごせるだろう』と、母にきてもらったよ。だが.........妻との仲がうまくいかんでねえ.........先日ねえ、『わたしをとるか、恵子(仮名)さんをとるか、どっちですか』と言われちゃってね。いい母だったですよ、昔は.........」。

 永六輔さん流に言えば、嫁姑の関係は、異文化交流の間柄であり、姑が「自己」の中に「非自己」を受け入れる免疫をつくる関係です(『嫁と姑』岩波新書)。(どうして嫁に免疫が必要ないのでしょうかねえ。わたしの読み込みが不十分なのかもしれません)。わたしは、その友人に「それで、どうしたの.........」とたずねると、知人のすすめでカウンセラーに相談に行った、と言います。カウンセラーは、「どっちをとるかと聞かれるなら、恵子です。あなたは棺桶に片足を入れていますが、わたしは恵子とこれから何10年もともに生きるのですから」と、母親に言え、と強い語調でいさめるように言われたそうです。

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このページは、adminが2010年2月21日 10:18に書いたブログ記事です。

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