斎藤利郎 - 『老年の人間の生き方』

斎藤利郎著『老年の人間の生き方』を連載します。 本書は、NPO法人家族のこころのケアを支援する会主任教授である斎藤利郎が、電話相談者のための研修にて発表した講演録に加筆修正したものです。
 

これまで話したことに、付け加えることはありませんが、最近、考えていることを「おわりに」とします。

「うつ」は、うつうつと......
 老年の人間の「うつ」は、わたしのファミリー・セラピストの経験によれば、こうした喪失が(寂しさと同意語として話しますが)、根源にあるように思います。認知症についても医学的な脳の機能障害にいたるプロセスには、喪失が深く関係しているように感じます。老年の人間の喪失で、特に重視したいのは、伴侶との離別と経済的な喪失のようにみえます。もちろん例外もあります。わたしが出会ったひとりの女性がこんなことを話してくれました。退職後まもなく夫が身体をこわして入院しました。そのとき彼女は、夫の退職金を含めた夫婦のあらゆる預金を計算して、「この人の入院がどれほど長期化するかわからない。決して無駄使いはできない」と、ケチに徹しました。ところが入院があまり長期化せず夫が亡くなられたのです。夫の死後しばらくして、彼女は「ああ、このお金は全部わたしが使ってもいいんだ」と気づきうれしくなった、というのです。

死ぬこと
 さて、話していいのか、あるいは話さない方が無難かと迷いながら、やはり話します。
 妻の死後、作家であり、『夏目漱石』で高い評価を受けた評論家であり、大学教授であった江藤 淳さんが自殺しました。1933年生まれですから66歳、その人生をみずから終わりにしました。巷の人びとは、その人生をさまざまな想いでみつめ語ります。自殺の直前に書いた『妻と私』の帯紙に、文藝春秋社の編集者は「愛とは、かくも苛烈なのか︱自ら覚悟して逝った著者の慟哭の手記」と記しました。伴侶と死別するという現実があります。でも自分の死を自分で選びとることに、わたしは同意しません。

とうちゃんは食事中
 老人漫画の天才だ、と美人画の杉浦幸雄さんをして言わせしめた西澤勇司さんの漫画は、老年の人間とは、かくもたのしく勇ましく、そして、ひょうひょうと生きているのか、と感じさせます(『老いは愉しい!』都市文化社:1999)。精神科医の斎藤茂太先生が西澤勇司さんの漫画を観て「いいヒントがたくさんでています」とおっしゃいますが、まったくそのとおりです。現役時代のように生をたのしみたいなら、屋台を路上にもちだせばよい。退職してからどうも時間のけじめがつかんなあ、と感じたら、古道具屋でカチンコを買ってきて、「ただいま、帰宅!」とやったらいい。孫や嫁が自分のイメージと相当に異なっていても、「どこで遺伝子が組みかわったか」、「働き者だよ、息子の嫁は!」と、言えばよい(漫画参照)。これが、この講義の最初の部分で話しました、発想の転換です。己のアイデンティティをつらぬく方法です。でも、どうすれば、こうしたうきうき感とたのしさを享受できるのか、が問われます。多くの老年の人間は、たぶん皮肉な薄笑いを顔面に浮かべ、「まあ、ご勝手におやりなさい」と、言うかもしれません。それでも、まあ、いいか、と思うのですが、わたしの経験を話すのも一興かと思います。

何がめでたしか、定年後の男女は新・婚
 いろいろ話し合っているうちに、興味のあることが分かりました。子育て、教育、それらを支えるための活動と収入、家の購入とその維持費など。それらの役割と機能を夫婦で分担して生活している間に、人生に関するお互いの考え方や姿勢に相異がひろがっていた、ということです。家族ライフサイクルの考えからみれば、この時期は、肉体的な衰えに直面して、自分自身と伴侶の行動や興味を持続させることへの配慮と、新しい社会的な役割や一族の中での自分にできる新しい社会的な役割を発見することですが(E.H.エリクソン)、「自分自身と伴侶の行動や興味を持続させる」のは、相当な犠牲が必要なのでは......と感じます。わたしは、老年の夫婦は、新・婚なのではないか、と考えます。新しい視点でお互いを理解する必要があるのではないでしょうか。その考えがセラピーにも影響を与えるように思います。

楽しくない結末

寂しいと言えない
 わたしたちは、月に一度、カウンセリング(セラピー)を学習しあっています。この2・3年は、ナラティヴ・セラピーの技法習得に努めていますが、その仲間に定年退職の夫と生活を共にする女性が何人かいます。そこで定年の夫が話題にのぼります。「今朝、駅まで送ってくれるというのよ。うれしかったわよ、そりゃ。でもね、車を降りるときに、『おい、何時に帰るのお』ときくのよ。もうガッカリ。わたし、『終ったらかえるわよ』。どうして『ジャ、気をつけてな』と言えないんでしょうかね」と。こういう夫を「濡れ落ち葉」というんだそうですが、「キミが出かけるとさびしいねえ」と、言えないんですね。日本の男性ですかね。

かまってほしい
 どうして「ひまつぶし」をして、子どもや嫁、若い人びとから敬遠され、うとまれることをあえてするのか、とい疑問がわきます。この疑問には、根源的な理由があります。時間の構造化という考え方には、他の人びとと触れ合いたい、「かまって欲しい」、他の人を「かまいたい」というわたしたちの基本的欲求が根本にあります。

「みえてくる」
 大江健三郎さんが『伝える言葉プラス』(朝日新聞社)のなかで、こんなことを言ってます。
「『知る』から『わかる』と進むことで、知識は自分で使いこなせるものとなります。そして柳田(国男)は『覚える』の次に『さとる』を置きますが、私は『わかる』の先にも『さとる』があるように思います。それは知ったことを自分で使えるようになることから、すっかり新しい発想に至ることです」
 老年の人間は、物事を「知る」から「わかる」、つまり、「みえる」ようになったのだと思います。わたしのことばで言えば、「みえてくる」、「みえてきた」のです。

「ひまつぶし」:時間の構造化

 永六輔さんのことばを引き合いに、嫁と姑の葛藤、あるいは昔流に「嫁いびり」の話をしましたが、羽化期をながいと感じる老年の人間は、その使い方に苦慮 するのです。暇でひまでしょうがないのです。これを専門用語で「時間の構造化」と言います。交流分析の技法を開発したエーリック・バーンというアメリカの 先生が、「自分に与えられた時間をどのように用いるか、人間は、いつもその枠組みを決めることに苦慮する」と言っています。この時間の構造化を六つの枠組 みに分けることを提案しています。
羽化した人の短くもあり、また、ありあまるときの季節

 わたしは、老年の人間のとき、つまり、老年の人間の季節を「短くもあり、また、ありあまるときの季節」と、あいまいに表現しましたが、これは老年の人間 のこの季節の生き方、考え方、発想の転換、あるいはそのひとのアイデンティティなどによって、どちらとも捉えうる、ということを示唆しています。